香港本屋めぐり 第22回

投稿者: | 2023年7月12日

神話書店(サンワ シューディム)

 

香港新界の東側——海に面した西貢(サイゴン)という地域は、多くの香港市民にとって週末に海鮮料理を食べに行ったり、港から出発する小型船で近くの離島を訪れたり、釣りをしたりというリゾート地的なイメージがある。
一方、この地域からは新石器時代の遺物が発掘され、宋の時代の文書に早くもその名が見える等、歴史ある地域でもある。市街地から鉄道は通っておらず、足はバスかタクシー等に限られる。
ただ、西貢と一口に言ってもそのエリアは広く、人口は40万人を超える。今回訪問した神話書店は、その西貢エリアの中心地——「西貢旧墟」にある。「墟」は広東語で市場の意で、古くから市がたっていた場所だ。この地域の人口はおよそ1万5000人で、これが書店にとっての主な商圏となる。

海に面した街

▼店主にとっての西貢という街

神話書店の店主——ステファニーさんは10年前、結婚を機に九龍半島の市街地から西貢に移り住んだ。会社勤めをしていた九龍の雑踏と、郊外の西貢ではかなり環境が異なる。ここで暮らし始めた当初、慣れないということはなかったのだろうか?
「すぐに慣れました。慣れすぎたと言ってもいいでしょう。静かですし、心地よい環境です。生活のリズムもゆったりしています。はじめのうちはここから九龍に出勤していました。仕事が大変でも『終われば西貢に帰れる』と思えば、乗り切ることができたのです」。
そのステファニーさんが会社を辞めたあと、地元西貢で書店を開こうと考えたのは2019年のことだった。

 

▼かつての洋書の古本屋

西貢には以前「悠閒書坊」という洋書の古本屋があったのだが、それが2015年に閉店。この地域は書店の空白地帯となってしまった。2019年、ステファニーさんが地域のコミュニティー活動に参加するようになると、ある住民が「悠閒書坊」の元店主を紹介してくれた。元店主はいつか書店を再開しようと多くの本を親戚の家に預けていたのだが、すでに他の仕事を始めていたので書店再開計画は諦めていた。それなら、ということでステファニーさんはその多くの古本を譲り受けることになり、さらに元の書店で使っていた書架も安価で提供された。店舗用の物件は親類が安価で貸してくれることになり、開店の準備は完了。すると地域の住民たちが骨董家具等を寄贈してくれた。
「地域の皆さんのお陰で開店できたと思っています。勤めを辞めて書店を開くまで、この地域をよく歩くようになり、社会に対する私の見方と一致するお店等にも出会いました。そうした環境全体が私を後押ししてくれたと感じています。2019年という年は多くの人の人生を変えました。私の変化は書店を開いたことです。西貢という土地への思いも深まりました」とステファニーさん。
2019年というのは、香港で多くの市民が参加した社会運動が起こった年である。

 

▼書店のロケーション

書店は「西貢大道」という道にある。「大道」といっても、いまは車両が入れない細めの道だが、かつてはこの道が埠頭に直接通じており、まさに地域の主要道路だったのである。
独立書店としては珍しい路面店だ。ただ、入り口のガラス戸のカーテンは常に閉じられ、あえて目立たないようにしているように感じられる。ドアを開けると、竹製の屏風、木製の書架が目に入り、落ち着いた空間が広がっている。中央に平積み用のテーブルがあり、その両側の書架には中国語の本が並ぶ。突き当たりはレジで、そこには香港に関連する様々なグッズも置かれている。その突き当たりの右側にはもう一つの空間があり、そこには洋書の古本が並んでいる。

控えめな書店の入り口

書店内の様子

▼書店名の由来 歴史書を読むこと

神話書店は歴史書がメインで、他に文学・哲学書、そして今の売れ筋の書籍も売られている。「神話」という店名について、ステファニーさんは以前、メディアのインタビューに次のように答えている。
「『神話』を探して取り戻すこと。それは大自然に対する人間の畏敬の念、そして未知の事々に対する謙虚さを再確認することだ。また今日、『神話』は故意に形作られた民族共同体のイデオロギーでもある。私たちの書店は、歴史書を皆で読み進めることで、誰かに定義されてしまった歴史の神話を打ち破っていきたいと考えている」。
この一文を読むと、ステファニーさんは何やら勇ましい闘士のように思えるかもしれないが、実際はとても話好きでフレンドリーな店主だ。
子供の頃、歴史の本を読むことが好きだったという。しかし学校で歴史の授業を受けるようになると、暗記を強いられる教育方法から、歴史が「嫌いな科目」になってしまった。しかし、就職して社会の荒波にもまれるようになると、再び歴史書を手に取るようになった。ステファニーさんは語る。
「私は歴史の学者や専門家ではないので、特にどの時代、どの地域の歴史書を集中的に読むということはなく、その時々の関心に応じて様々な本を読みます。『歴史書から教訓を汲み取る』とも言われますが、人間はいつも同じような過ちを繰り返していますよね。それでも過去の歴史的な視点から見ていけば、いま目の前で起こっている現象も理解できるかもしれません」。

 

▼イベントと客にとっての書店のロケーション

神話書店では、他の独立書店同様、イベントを盛んに開催しているのか尋ねた。
「私は書店経営や出版界とは全く縁のなかった人間ですので、当初は出版社や作家との連絡の取り方もしりませんでした。それでも開店して間もなく、ある出版社から声がかかり、新刊書の著者を招いて読書会を開いたことがあります。でも、参加者はあまり集まりませんでした。地理的な問題だと思っています。ですので、書店として何かイベントを開くというより、地域の民間団体から求めがあれば会場として提供するという形になっています」。
週末に多くの人が訪れる西貢。書店も週末になると多くの人が立ち寄るのだろうか。
「ご覧の通り目立たない店ですので、通りかかった人がたまたま入ってくるということはあまりありません。客で賑わうのは、よいこともあればそうではないこともあります。静かな環境の中で、椅子にこしかけ本をじっくり読んでくれてもいいし、待ち合わせのついでに本を手に取ってくれるのもいいでしょう。わざわざ訪ねてくれる人は、ネットで見たというケースが多いですね。その他には、洋書も多いからでしょうか、海外から留学に来ている学生さんがバスに乗って来てくれることもありますよ」。

 

▼今後の展望

このような「控えめ」な神話書店の今後を、どのように展望しているか尋ねてみた。
「一般的な独立系の書店は現在、一部の人たちから『どのような本を扱っているのか』が不自然な形で注目されています。この状況が今後どのように進展していくのかわからないので、展望というより、できるところまでやり続けると言うべきでしょうか。ここは幸い安めの家賃で、路面店で運営できていますが、その意味で市街地の書店は本当によくやっているなと敬服するばかりです。家賃の関係でほとんどがビルの上階ですよね。以前のように、どこかに勤めた方が収入は多いのかもしれませんが、赤字続きにならない限り、社会的環境が許す限り、地域に根ざした書店として続けていきたいです」。
今後も、西貢という街を楽しみながらこの書店の状況を確認する機会を多く持っていきたい。

書架を整理するステファニーさん

(取材:2023年6月12日)

 

▼ステファニーさんのお勧め

『你一定愛讀的極簡歐洲史:為什麼歐洲對現代文明的影響這麼深?』(改訂版)

出版社:大是文化(台湾)
著者:ジョン・ハースト
翻訳者: 呉宜蓁、席玉蘋、廖桓偉
改訂版初版:2023年3月
IISBN:9786267251126

 

 

 

日本語版は『超約 ヨーロッパの歴史』(東京書籍、2019年)。
著者はオーストラリアの歴史学者。ヨーロッパ文明の起源を「ギリシャ・ローマ文化」「キリスト教」「ゲルマン戦士」という3つの視点から振り返り、その歴史がはらむ深層の問題を、大胆に簡略化して明らかに示す歴史書。

 

『絢爛的世界帝國:隋唐時代』

出版社:台湾商務印書館
著者:氣賀澤保規
翻訳者: 郭清華
初版:2017年12月
ISBN:9789570531169

 

 

 

日本語原著は『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』(講談社、2005年)。
日本の歴史学者による隋・唐の歴史解説書。隋による統一から唐王朝の滅亡までが収められている。香港を含めた中国語圏では、日本の学者による中国史の翻訳本がかなりの人気を博している。

 

▼書店情報

住所:新界 西貢大街17號地下
インスタグラム:https://www.instagram.com/dionysus_books/

 

Google Map 香港本屋めぐりMAP

 

写真:大久保健

―――――

大久保健(おおくぼ・たけし) 1959年北海道生まれ。香港中文大学日本学及び日本語教育学修士課程修了、学位取得。 深圳・香港での企業内翻訳業務を経て、フリーランスの翻訳者。 日本語読者に紹介するべき良書はないかと香港の地元書籍に目配。

LINEで送る
Pocket