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中国映画のコラム 第4回 .

 “意外”と面白い中国の児童映画
   ――慶應義塾大学日吉電影節2014の報告を兼ねて 【前編】
吉川 龍生

   
   

 中国には児童映画という“ジャンル”がある。
 中国児童映画製作所や中国児童青少年映画学会といった児童映画関連の組織があり、児童映画に特化した中国国際児童映画祭が隔年で開催されてもいる。国家システムの中で児童映画が位置づけられ、生産されていると言える。その反面と言うべきか、その結果と言うべきか、2012年6月の中国青年報のアンケートで、中国国内でも中国国産児童映画は全体的に質が低いと思われているというデータもある。そして、そんな中国国産児童映画が日本で劇場公開されることは、まず無い。
 それにもかかわらず、あえて中国児童映画について書いてみようと思ったのは、中国児童映画という定義や存在の持つ独特の微妙さには興味深い側面があるばかりでなく、実際かなり質の高い作品もあって、“意外”と面白く、一考に値すると考えたからだ。また、『東方』2014年12月号の催事案内にも掲載して頂いた慶應義塾大学日吉電影節2014において、日本で劇場公開されることのほとんどない中国児童映画を上映するイベントを実施したため、その報告も兼ねようという次第でもある。
  

■児童映画の定義と歴史

『中国少年児童電影史論』(張之路、2005) 張之路『中国少年児童電影史論』(中国電影出版社、2005年)によれば、1980年代初、中国児童映画製作所が「児童映画」を次のように規定したとある。

 第一に、青少年児童が映画の主人公であること。(…)第二に、内容が青少年児童が生活に参与する、或いは青少年児童の視点から生活を観察するものであること。第三に、内容が青少年児童の鑑賞にふさわしいものであること。

 張之路の前出書などによれば、中国で最初の短編の児童映画は『腕白小僧(頑童)』(但杜宇監督、1922年)、長編は『孤児おじいさんを助ける(孤児救祖記)』(張石川監督、1923年)であると言われている。1940年代には、『西遊記 鉄扇公主の巻(鉄扇公主)』(万籟鳴・万古蟾監督、1941年)、児童映画というと必ず言及される名作『三毛の放浪記(三毛流浪記)』(趙明・厳恭監督、1949年)が製作されている。こうした作品は、当時から児童映画として製作されたというよりも、現在の定義にもとづいて位置づけ直されていることは言うまでもない。
アニメ映画『鉄扇公主』(1941)の一場面 また、李道新「空間的電影想像与想像的空間」(『二十一世紀児童電影発展研究――第十一届中国国際児童電影節論壇文集』中国電影出版社、2013年、所収)によれば、新中国建国後最初の児童映画は『子どもたちへの祝福(為孩子們祝福)』(1951年[上映は1953年から])であるとされ、監督は1930年代から活躍した名優・趙丹である。その後の作品としては、『小さな密使(鶏毛信)』(石揮監督、1954年)、『わんぱく兵チャン(小兵張嘎)』(崔嵬監督、1963年)、『きらめく赤い星(閃閃的紅星)』(李昴・李俊監督、1974年)などが、児童映画の定番であるという。
 新中国建国後の作品には、子どもに見せることを初めから意識した作品も増えてくるように思われるが、映画製作システム上「児童映画」がはっきりと区別されるようになるのは、1981年6月1日に北京児童映画製作所が発足してからである(1987年に中国児童映画製作所に改組)。初代所長は、『不屈の人々(烈火中永生)』(水華監督、1965年)の出演で知られる女優であり、第6回東京国際映画祭グランプリ作品『青い凧(藍風箏)』(1993年)の田壮壮監督の母親としても知られる于藍である。その後、1980年代から90年代にかけては、政府が毎年12作の児童映画生産を指標としたため、それにもとづいて毎年10作前後の作品が「児童映画」として製作されていく状況が続いた。
 こうした状況は、2001年のWTO加盟に伴う映画産業改革で大きく変化する。2001年12月12日に通過した「電影管理条例」が2002年2月1日から施行され、従前、半ば「公益事業」的な性格を持ってきた映画産業が大きく商業化・市場化に舵を切り、私営企業の映画製作に関する規制も大幅に緩和された。児童映画に関しては、2004年に私営企業の児童映画製作への参入や農村の教育状況を反映した作品の製作が各種通達により政策的に後押しされた。第19回東京国際映画祭のコンペティション部門に出品され、受賞こそ逃したものの高い評価を受けた『考試(原題同じ)』(蒲剣監督、2006年)も、実はそうした児童映画を取り巻く一連の流れの中で生まれた作品である。児童映画製作を促す政策の後押しを受け、児童映画の製作本数は年々増加し、2010年に53作(劇映画の総数は526作)と50の大台を超えてからは、年50作前後(アニメーションを含む)の作品が製作されている。
  

■“揺れる”存在意義

 児童映画は、国や地方政府、公的機関からの補助金や出資を受けて製作されることも多く、中央電視台の映画チャンネルによる買い取りや学校内での上映を主とした児童映画配給網への売却、海外映画祭への出品や受賞に対する国からの報奨金などで収入を得て成り立っている。したがって、他の劇映画製作に比べて国への依存度が高く、そのぶん国からすればコントロールしやすい分野とも言える。共産党の指導によって製作され、党の方針や政策を反映したり宣伝したりする「主旋律映画」の牙城とも言うべき役割を担わざるを得ない状況があるわけだ。
陳凱歌・監督『北京ヴァイオリン(和你在一起)』(2002) 一方、WTO加盟以降、中国映画を取り巻く状況は劇的に変化している。そもそも中国社会全体が大きな変化に直面しており、その中で児童映画の主人公であり観客である子どもたちの置かれた社会状況も激変している。また、製作資本の多国籍化もすすみ、デジタル機材の普及によって映画製作の敷居も低くなってきている。
 製作側からすれば、国に頼らずに独自資本で自由な表現を追求するのか、国の援助を当てにして無難な内容にするのかといった選択の余地が生じる。一方、評価し管理する側からすれば、何が“国産”児童映画で、何が“児童”映画なのか判断がつきにくい状況になっていると言えよう。例えば、台湾のスタッフが主体となって製作された『星空(原題同じ)』(トム・リン(林書宇)監督、2011年)を本当に国産児童映画と呼んでいいのか、ふだんはインディペンデントで活動している楊瑾監督の『ホメられないかも(有人賛美聡慧、有人則不)』(2012年)をどう評価するのかといった問題も生じてくる。また、はじめから「児童映画」として製作されたわけではない作品、例えば『あの子を探して(一個都不能少)』(張芸謀監督、1999年)や『北京バイオリン(和你在一起)』(陳凱歌監督、2002年)のような作品を、「児童映画」の歴史の中にどう位置づけるのかといったことも、見解が分かれるところである。
 筆者の参加した、第11回と第12回の中国国際児童映画祭(2011年6月の江蘇省江陰と2013年9月の吉林省四平)の期間中に開催された児童映画フォーラムでも、このような問題が議論されていた。もはや1980年代に中国児童映画製作所が規定したような児童映画の定義だけでは通用しない状況の中で、製作者・管理する官僚・映画を評価する研究者それぞれの児童映画観が分かると、中国において無視できない存在である主旋律映画がどう捉えられているのかが透けて見えるようで興味深い。

(よしかわ・たつお 慶應義塾大学)

   
 
   
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