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私の伯父さん 周恩来 上製
周秉徳/王敏 監修/張晶,馬小兵 訳
出版社:法政大学出版局
出版年:2019年12月
コード:   480p   ISBN/ISSN 9784588366093
 
価格 2,970円
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日中戦争、国共内戦から建国、大躍進運動、そして文化大革命へ。私を滅して国家に尽くし、その地位に驕ることなく毛沢東を支え、激動の二十世紀中国を駆け抜けた名宰相、周恩来。彼の姪である著者は、幼いころに親元を離れ、周恩来夫妻に実の娘のように育てられた。厳しくも温かい〈伯父さん〉としての日常と、党の方針と己の信念との間で揺れ動く総理としての苦悩を、もっとも身近で見つめてきた著者が記す。

目次:
まえがき
プロローグ
第一章 はじめての中南海
 一 私は豊澤園ではじめて恩来伯父に会った。父と本当にそっくりだった。駅では穎超伯母ともはじめて対面し、「実の母」のエピソードがうまれた。
 二 私は友達と何度も中南海で小魚や小海老を釣って「貢ぎ物」とし、毛沢東主席と昼食を食べたこともある。ある日、毛主席に題辞を求めると、「君は学生だから、『よく学びなさい』と書こうかな?」と笑い、快諾してくれた。

第二章 西花庁の兄弟愛
 一 母・士琴が働けるように、弟の秉鈞と妹の秉宜も西花庁に移った。父・同宇の過去の問題は長いあいだ、癒せぬ心の痛みとなった。
 二 父・同宇は革命にまったく貢献をしていないわけではない。周恩来の弟だからこそ、兄の意志に従うことをみずから選んだのだ。たとえそれで人生に悔いを残すことになったとしても。
 三 周恩来夫妻は数十年にわたり、手を携え支え合ってきた。伯母はかつて息子を失い、命の危険に晒されたが、恩来伯父が知恵を絞り彼女を救った。
 四 光り輝く金のイヤリングは朱おばさんの「皇親国戚」の縁を物語る。母は四十年前に穎超伯母が書いた簡潔な手紙を何枚か探し出した。
 五 恩来伯父と穎超伯母は、努力して自立するよう教えてくれた。伯父の肩書きを利用し、特別な扱いを受けてはならない。
 六 恩来伯父は国家の総理だが、過去の旧い戦友や部下を忘れたことはない。そして、革命に身を投じる前に出会った同窓生や友人も忘れたことはない。

第三章 お年寄りを敬い、養うのは周家の家風である
 一 一九四九年の冬、六番めの祖父・嵩堯は北京に迎えられ、恩来伯父直々の許可のもとで政府機関に勤めた周家唯一の親戚となった。
 二 恩来伯父は淮安から八番めの祖母を迎え、最後まで面倒を見た。
 三 六番めの祖父の八十歳の誕生日を祝うために、恩来伯父はエプロン姿になり、厨房で手ずから郷土料理を二品作った──梅干菜焼肉と獅子頭。
 四 一九二八年、恩来伯父と穎超伯母はモスクワの「六大」に出席するさい特務工作員に疑われ、父・同宇と四番めの祖父・貽コウが援護した。
 五 革命のことをあまり知らない実の祖父・劭綱が、いちばん心配しているのは革命に身を投じた息子であり、そのために、みずから孤独な漂泊の道を選んだ。
 六 祖父劭綱の最期を看取ることのできなかった恩来伯父は慟哭し、穎超伯母に激怒した。

第四章 国家のニーズに従い、職業を選択する
 一 恩来伯父のコネを使おうなどと思ってはならない、自分の力で努力するのだと、穎超伯母は真顔で念を押した。北京師範大学女子付属中学校から、私は夢に向かって旅立った。
 二 ソ連映画『村の女教師』に心を動かされた私は、北京市の師範大学に入り、中国の村の女教師になることを決心した。
 三 私たち姉弟六人のうち、四人が軍隊を経験した。そのつど恩来伯父は異なる態度を示したが、「党と国家のニーズをみずからの第一希望とする」という原則を貫くことに変わりはなかった。
 四 「周総理の姪と言えば、造反派があなたを捕えて尋問することは絶対にないだろう!」しかし、私はきっぱりと断った。
 五 「周秉徳が周恩来の親戚だなんてことはありえない!たとえ親戚だとしても、遠い遠い関係だろう。そうでなければ、私たちと同じ苦労をするわけがない。」

第五章 愛情の耐えられない軽さ
 一 十八歳になった私は就職してまもなく、キューピッドの矢に射抜かれた。それをきっかけに、瀟洒で格好いい恩来伯父が、なぜ地味な見た目の穎超伯母に恋い焦がれたかがわかった。また、恋というものは甘いだけのものではなく、もっと深い意味を含んでいることもはじめて知った。
 二 中ソ関係は日増しに緊迫しつつある。それは、ソ連に留学中のある大学生と私との、悲しい運命を決定づけた。二十六歳になっても私は未婚のままだった。
 三 「天」から落ちてきた美男子・人カ驊は、恩来伯父と親交のある沈鈞儒先生のいちばん上のお孫さんだった。私たちの結婚式は十月一日に行われ、その日、穎超伯母がみずから結婚祝いの品を届けてくれた。

第六章 「大躍進」の中国、「門前冷落して鞍馬稀に」の西花庁
 一 一九五八年、「大躍進」が始まると、私は密雲ダムの建設に携わる二十万人のなかのひとりとなった。熱気あふれる工事現場で、私は毎日あかるく働き、闘志を燃やしていたが、この一年のうち半年以上も恩来伯父と穎超伯母が西花庁にいなかったことに疑問をもった。
 二 一九五八年、西花庁は一転してもの寂しくなった。「右派から五十メートル」と批判された恩来伯父の内心の苦しみは凄まじいものだった。共産党内で自己批判をもっとも多くしてきた彼も、今度ばかりは言葉につまり、反省書を書く筆はなかなか進まなかった。
 三 密雲ダムの工事現場には、ほかのところで見たような「ロマンチック」な「大躍進」はなかった。恩来伯父は六回にもわたり現場を訪れ、ダムの立地から品質の管理までいちいち厳しく監督していた。そのおかげで、当時できたダムはいまなお首都に恩恵をもたらし続けている!

第七章 「文化大革命」の災い
 一 十五歳になる妹・秉建が、穎超伯母の手紙が入ったショルダーバッグを胸に抱きかかえ、とつぜん汽車で西安を訪れた。
 二 父・同宇は深夜、秘密裡に逮捕された。捜査に来た解放軍は父の引き出しだけを調べ、去りぎわに母・士琴に念を押した。「子どもを含め、他言無用です。もし隣人に聞かれたら、遠出したと答えてください。」
 三 意外なことに、赤ちゃんを産んだ一か月後、父・同宇を逮捕した張本人がお見舞いに来てくれた。「あなたのお父さんが逮捕されたのは、周恩来の弟だからだ」、彼の一言で私は安心した。

第八章 苦い栄光
 一 敵の仕掛けた三十年前の「伍豪啓事事件」を利用し、恩来伯父を失脚させようとする人がいた。この件は伯父の一生の心残りとなった。
 二 「歴史的任務を全うする」か、「延命する」か、二者択一の選択肢の前で、恩来伯父は躊躇なく前者を選んだ。仕事のために生きる、というのは伯父にとって、けっして口先だけの言葉ではないのだ。
 三 私は恩来伯父に会えず、電話で彼を「非難」したが、「その日が来るのは当然のことだ」と、伯父は平然と答えた。
 四 みずからの油断で、恩来伯父と会う最後の機会を逃してしまった。これは永遠に取り戻すことのできない失敗であり、私にとって一生の後悔となった。
 五 私は納得できなかった。忠誠を尽くした恩来伯父に対する、「矢も盾もたまらず権力を横取りしようとした」などという容赦ない批判に仰天した。癌を患った伯父は最初の手術から最後の手術まで、病状報告書すらすべて自分で書いていた!

第九章 「家族を連れて無産階級に投降する」
 一 一九八二年四月十八日午後、まるまる十六年ぶりに父・同宇と母・士琴はふたたび西花庁に足を踏み入れた。このとき、恩来伯父の逝去からすでに六年が経っていたが、十八年前の夏、伯父が家族全員のまえで話す姿はつい今しがたのことのように思い出された。
 二 「今日、みんなに来てもらったのは、危篤状態に陥った恩来が、私の手を握り、『あとはおまえに任せたぞ』と言ったからです。私はいつも彼の頼み事を、彼の想像よりもうまく解決し、彼を驚かせたものでした。」
 三 穎超伯母は言った、「今日は私の悔しさを吐き出したい。あなたたちは有名な周恩来の甥や姪、弟や弟嫁であるのに、この親族関係にあやかるどころか、いたるところで制限を受けているのを少し悔しく思っていたでしょう。でも、有名な夫をもつ妻の私も、ずっと手足を縛られていたのを知っていますか?」
 四 一九八二年七月十一日、穎超伯母は私と秉鈞に遺言について話し、十年後の同じ日──一九九二年七月十一日に、伯母は永眠した。
 五 私は夫の人カ驊とともに三十四年間の歳月をすごした。彼が他界したあと、私は彼の人生の価値を深く感じ、「恩来伯父と穎超伯母に倣って死後は遺灰を海に撒き、自然に帰す」と、彼との共通の願いを想い起こした。

第十章 生誕百年を記念し、さまざまな思いを込めて
 一 生誕百年を迎え、百種の記念方式、百回の記念イベント。おのずと万感胸に迫り、さまざまな思いがこみ上げてきた!

あとがき
再版へのあとがき
訳注
周恩来 曾祖父以降の系譜図

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