日本ビジネス中国語学会 第17 回公開公演・シンポジウム

  2005/2/13

 

中国語学習と実用の経験

 

 

    日本国際貿易促進協会 専務理事   

 

 

片寄 浩紀

 

 

 

【レジュメ】

(1)  中国語との出会いと基礎段階 [自分の単独学習]

    (あ)大学教育 ……「青」とは何か(字と音声)?
                 香港のラジオドラマ録音テープ「駱駝祥子」
    (い)民間学校 ……教科書は「小学語文」
                 謝氷心「下駄」の自己朗読、帰国者との交流
    (う)自己学習 ……聞く「北京放送の録音」(口真似)
                 読む「青春之歌」(辞書、音読)

(2)  仕事で使う段階 [組織の中での実践]

    (あ)逐語通訳 ……上司・同僚の手助け
                 話す力と聞く力が交互に向上
    (い)文書作成 ……前例や関連文書の蓄積の利用、上司・同僚の
                 手助け
    (う)中国事情 ……言葉以外に中国の現状に対する理解が必要
    (え)自己学習 ……読む「古典」、月刊雑誌「紅旗」(辞書、音読)

(3)  レベル向上の段階

    (あ)国家指導者の通訳 ……正確さ、スピード、明瞭さ、品格、
                      援助無し、第2の母国語的感覚
    (い)新語の掌握 ……必要な中国語版「現代用語の基礎知識」
                  微妙な変化「待業」、「国庫券」、「国有企業」
    (う)自己学習 ……「経済日報」、評判の書「中国農民調査」
                英語学習の必要性

【講演録】

 本日、日本ビジネス中国語学会のセミナーでお話する機会を与えられたことを大変感謝しています。

 最初に自己紹介します。私は1946年、敗戦の翌年に神話の国島根県の出雲市で生まれました。自分の年齢に+1で戦後の年数となります。ちなみに今年は敗戦60周年ですね。

 1964年、東京オリンピックの年に東京に出てきて、大学の第二外国語として中国語を選択しました。これが中国語との出会いです。選択必須科目の第二外国語として、ローマ字以外のものをというまったく受動的な選択でした。しかし、その二外の中国語の工藤先生の授業が中国語と中国への興味を掻き立てました。先生の勧めもあり、同年10月から倉石中国語講習会(現在の日中学院)の夜間部にも通い始めました。

 さて、卒業年度に至り、就職を決めなければなりません。学部は法学部でしたが、もうそのころには中国と直接触れ合う仕事に就きたいと思うようになっていました。学校に残り教師になる道もありましたが、学資がありませんでしたし、学校で働くにしても、中国関係の仕事で経験を積んでからにしたいと考えました。当時、国交はありませんでしたが、商社を通じた貿易が中国との間で進められていました。関係する貿易団体として日本国際貿易促進協会がありました。自分の性格から商社の仕事は向かないと考え、この協会に就職しました。就職試験の語学テストでは毛沢東語録を音読させられました。「青年」という章の一節で“世界是你们的,也是我们的,但是归根结底是你们的。”のところだったと覚えています。

 1968年に日本国際貿易促進協会に入り、日中貿易業界に身を置き、現在に至っております。この間、広州交易会への参加協力、訪中団の派遣、訪日団の受け入れ、中国での展覧会の開催、北京駐在等の実務に従事してきました。

その過程で、中国語の学習と実用上で経験したことを基礎段階、仕事で使う段

階、レベル向上の段階の三つに分けてお話します。皆様にとって少しでも参考になるならば幸いであります。

(1)  中国語との出会いと基礎段階

 共同学習の方法もあるとは思いますが、基本的には自分の単独学習となります。

 [大学の授業]

 さて、大学での授業の教科書はいきなり現代中国文学の代表的な作品で、先生の好みから老舎の短編小説《全家福》が使われました。教授法は90分に1行しか進まないという驚くべきものでした。例えば、“青”とは何か?BLUEと同じか?東洋人の目は黒いのに、“眼目+青”というのはなぜか?“青衣”とか“青瓦”の色は黒である。しかし“青=黑”ではないはずだ。“青”を含む漢字の音声はQINGかJINGであるが、どんな感じがするか?という調子でした。皆さんはどうおもわれますか。私は“青”とは濁りがなく、どこまでも澄み切った、透き通った、純粋な感じを表すように思います。そういう気持ちで“请坐”“请进”といってみてください。ただ話せればよい、通じればよいといった実用主義とはかけ離れたものであったが、軽視できない視点でありました。

 夏休みの合宿では香港のラジオドラマ録音テープ《骆驼祥子》を聞き、理解するという時間もありました。虎姑娘の愛の告白“我疼你呀!”という台詞は強烈な印象でした。

 [民間学校]

 倉石中国語講習会での授業は大学とまったく対照的でした。教科書は《小学语文》という中国の小学校の国語教科書で、発音や基礎文法をしっかりおそわりました。

 現代中国の知識人の生の言葉(といっても録音ですが)を聴いたのも講習会のおかげでした。有名な作家である謝氷心女史が作家代表団に加わって来日した際、講習会を訪れ、講演の代わりに「下駄」という自己の作品を朗読したテープがありました。

 謝女史は中華民国駐日大使館幹部職員の夫人として敗戦直後の日本に滞在したことがありました。この作品は、その時に見た貧しい中にも明るく生きていく日本の庶民の姿がカラコロという下駄の音に象徴されているという内容。その声は北京放送アナウンサーの調子とはまるで違い、優しさと知性に溢れた魅力あるものでした。発音に故郷の福建なまりが残っているのもかえって親しみを感じました。

 その他に課外活動として中国からの帰国子女との交流もあり、公的資料や公式発言では知りえない、実際の中国の一端を知ることができました。彼らとは今でも付き合っています。

 [自己学習]

 学校の授業を補足する自己学習として、聞くことと読むことをやりました。夏休みのアルバイト料でテープレコーダーを買い、深夜に「北京放送」を録音して、繰り返し聞き、口真似をしました。当時テレコはまだオープンリール式の重い機械で、3万円もしました。学習にも金がかかるものです。

 読む方では当時のベストセラー《青春之歌》を辞書引き、音読しながら完読しました。どうしても意味の分からないところはアンダーラインを引いておいて倉石講習会の先生に聞きました。

 当時の環境から言って、中国語を話す機会はほとんどゼロでしたが、放送の口真似や音読により少しは話す力を養えたと思います。音読の習慣は社会人になってからも続け、電車の中でもやっていたため、乗客から「うるさい」とどなられたことが何度もあります。

 いずれにしても長編の《青春之歌》を読み終わった時、自分でも学力が一段階向上したような気がしました。

 基礎段階で正確な発音の習得がいかに大切かのエピソードを1つ。ある日本企業の北京事務所長がタクシーで自分の自宅のある“长城饭店”に帰ろうとして、片言の中国語で運転手に“changchengfandian”と言うが、どうしても通じないと嘆いていました。

(2)  仕事で使う段階

 協会に就職してからは、直ちに中国語を使うことになりました。最初は中国から来た手紙や電報の日本語への翻訳であり、しだいに日本語文書の中国語への翻訳もやりました。国交正常化以後は、来日団の随行と通訳、訪中団の随行者として中国側との打ち合わせや交流の通訳などの仕事が急増し、仕事の中で中国語も鍛えられました。

 ただ、仕事は協会であれ会社であれ、組織の中での実践であり、チームでやるものですから、上司・同僚の手助けがあるわけで、学生時代の単独学習とまったく違います。逐語通訳においては詰まったり、誤訳した時は上司・同僚が助け船を出してくれますし、文書の翻訳では前例や蓄積された関連文書を利用できますし、上司・同僚の点検を受けた後に発出します。

 とは言っても仕事上の失敗は実害が出ます。私も技術交流のテーマを誤訳したために別の分野の専門家を北京に派遣して、日中双方の信頼を失ったことがあります。翻訳・通訳の業務には緊張感に持続と誤魔化さない誠実さが要求されます。

 この段階では辞書にある一般用語以外に各種の専門用語を使う必要が出てきます。専門の辞書を買い整えることや、実践で収録した言葉の単語帳を作ることをやってきました。

 1980年代に入り、中国では「中外合弁企業法」を皮切りに法律が続々と制定され、それらを正確な日本語に写し換えるための法令用語の単語帳を作ったのはその一例です。

 この段階で重要なもう一つのことは中国事情を勉強するということです。「言葉ができるのであれば、言葉以外に中国の現状もよく知っている」と思われ、いろいろ人からきかれます。ですから中国に関する各種の書籍や雑誌を読む必要が出てきます。

 自己学習では現代文学に加えて《三国志演义》、《西游记》、《红楼梦》といった明清時代の小説に進みました。また、“人民日報”などの日刊新聞を読む時間はとれないので、月刊雑誌《红旗》を自分で購読しました。1975年のある月の《红旗》の巻頭論文が“环境保护问题”であったことに注目しました。これが契機になって1976年北京での「日本環境保護機器展覧会」の開催という事業に結びつきました。

 この段階で感じたことは、話す力と聞く力が交互に向上したということです。自分が言うことは通じるが、相手(中国人)の言うことが聞き取れなくて困った。相手の言うことは聞き取れるが、自分の言いたいことがうまく表現できなくてもどかしい。こういった状態が交互にやってきました。

 当時、私が最も苦手だったのが山東省出身の老幹部でした。中央政府の各部門には山東出身者がまた多かったのです。広東や上海の人は、広東語や上海語が普通語とは全く違う発音(語彙も違う)であるため、努力して普通語を話そうとします。ところが山東人は山東方言は普通語に近いと思っているため、直そうとせず、山東方言丸出しで話します。私にとっては恐怖の山東人でした。もっとも現在の山東省の若い幹部は全員がすばらしい普通語を話します。私の恐怖症も過去のものになりました。

(3)  レベル向上の段階

 実力が認められてくると、次第に重要な通訳をまかせられるようになります。国家指導者や企業のトップの登場する場面での通訳はかなり緊張します。隣に助け船を出す人はいません。正確さ、スピード、明瞭さ、品格の高さが要求されます。話題は広範囲で、どういう話が出てきても対応しなければなりません。もう第2の母国語的感覚といえましょう。

 そしてもう一つ指摘すべきことは中国の発展と国際化の早さです。それは言葉の面にもすぐに反映されます。9.11テロ事件にしろ、アンチテロ声明にしろ、即時に中国でも報道されます。中国の経済用語でも、いつのまにか“待业”が“失业”、“国库券”が“国债”、“国营企业”が“国有企业”に変化しました。

 この段階では、専門用語というよりも時事新語の掌握が必要になります。日本では基本的な国語辞典や専門用語辞典と生きている新語との隙間を埋めるものとして「現代用語の基礎知識」などが出版され利用されています。中国語版「現代用語の基礎知識」が必要なことをここ数年特に痛切に感じました。そこで去年「中日英対照 中国最新用語辞典」を出版しました。

 まだ収録語数1800という小さなものですが、将来は「現代用語の基礎知識」並みに充実させたいとの夢をもっています。多くの皆さんが愛用されることを希望します。

 この段階の自己学習として私は“经济日报”に毎日目を通し、評判の書たとえば《中国农民调查》などを読んでいます。

 コンピュータやインターネットは手段だと思いますが私は経験不足です。次に講演される藤本先生が紹介してくださると思います。また、中国語が一定のレベルに到達したら、英語学習を心からお勧めします。グローバルビジネスパーソンの誕生です。「中国最新用語辞典」を「中日英対照」としたのもその故です。

 以上お話したように、外国語の習得に楽な道はない、“贵在坚持”に尽きると思います。対象である中国、中国人、中国語に興味を持ち続け、さらに理解を深めようという情熱を持ち続けることが継続学習のエネルギーだと思います。

 

【配布資料】

日中学院報 9.18記念講演会

「中国と向き合い40年1964~2004」

日本国際貿易促進協会
専務理事  片寄 浩紀

■中国と向き合い40年

 私と中国とは、1964年から語学の勉強を始めて今年でちょうど40年、中国語、中国の人、中国とほとんど切れ目なく付き合ってきました。

 私自身は、昭和21年の生まれで戦後の年が自分の年足す一で自動的に分かるほどの年です。実際に戦前を見たり聞いたりした方もおられると思いますが、私が生まれたのは戦後ですので戦争や空襲その他も知りませんので、全て学校や社会を通して後追い勉強で認識している程度です。

 今から振り返ってみますと日中国交正常化がなった1972年の共同声明で歴史問題等について、「謝罪」という明確な言葉は使われず「深く反省する」という言葉で文言が書かれたために、その後何度も歴史問題が日中首脳のなかで繰り返され現在までに至っているように思います。中国は、私どもが若い時につきあった毛沢東時代と鄧小平以後の今の中国とでは大きく様変わりしました。社会主義の計画経済から社会主義の市場経済システムに、経済を運営するしくみが大きく変わり、もう25年経ちました。社会主義市場経済と日本の資本主義市場経済は冠が違いますが、実際市場経済の原則で経済を処理していこうという同じ面が強くなり、経済的に中国と付き合う時でもかつてのような溝というか体制の違いが若干薄くなり、色々なことが一緒にやりやすくなってきたのが現在です。

■1964年倉石講習会で中国語を学ぶ

 私は島根県の出雲の生まれで1964年に大学入学のため東京に出てきました。第二外国語で、たまたま私の行った大学に中国語があり、ドイツ語やフランス語は皆ローマ字ですが漢字の外国語もいいんじゃないかという程度のことで選んだのが運のつきでした。大学では工藤先生という大変立派な先生がおり、90分の授業でテキストの一行しか進まないという超スローペースで、かつての漢文や実用支那語ではなく外国語として中国語を位置付け、文化も含めて深く理解しなさいという姿勢で中国語を教えられました。先生に「私の授業を何時間聞いてもしゃべれんよ、実用とは関係ないよ」と言われ、1964年10月には「中国語を本当に勉強するつもりなら、倉石講習会に倉石先生という方がおられるから、そこに行って実際に使える言葉を勉強しなさい。」という勧めがあり、夜週3回火木土のクラスを受講しました。当時の日中学院はこんな立派なホテルや留学生宿舎やオフィスビルなどなく、昔の中国風の青い瓦の善隣会館の一階を使い、長い5人掛けくらいの椅子に学生が座るといったふうでした。夜間の倉石講習会では70近いご年配の方から高校生まで年代がばらばらで、仕事や学校が終わってから勉強しておられました。1964年は日中国交正常化の8年も前のことです。ですからここで勉強しても社会で使うチャンスはないし中国から誰も来ませんし中国にも行けません。実用の言葉を教える学校に実用するすべがない言葉を熱心に勉強に来られるのです。私は当時18、19でしたけど、大変感動的な夜の集まりでした。言葉の勉強を通じて中国のことをもっと知りたいという尊い人々の気持ちが倉石講習会にはあり大変心を打たれました。40年のうち最初のこの講習会が大きなインパクトがあったわけです。現在日中学院で勉強されている皆さんも是非そういうところを感じられて社会に出ていただければありがたいと思っています。倉石講習会の「学好中国話,為日中友好起橋梁作用!」これはずっと一貫したスローガンであります。何のために勉強するのか、勉強したらどう活かすのか、活かす道がないのに、このためだということをずっとスローガンとしてやってこられました。単なる授業だけでなく課外活動で演劇をやったり、引揚者の人達と座談会を開いたり、私もその中で引揚者のご家庭と付き合い、生の中国の生活や中国の人々の考え方が分かり、言葉と両方勉強したのが64年から68年までの段階です。

 この頃、中国では1966年から文化大革命が始まり年々激しくなっていきました。国交回復後では中曽根総理と胡耀邦さんの約束で実施された日中青年5000人大交流が皆さんの記憶にあると思いますが、実は文革の頃にも日中青年交流があり、第1回の交流には相当規模の日本の青年が中国に行きました。ところが1年後、中国では文革が激しくなり2回目の交流は、外務省や主催者側などいろいろな所からストップがかかり、日中学院でも代表を出して行くべきかどうか議論がありました。私が考えたのは日中交流は文革が激しくなったり、毛沢東思想の押し売りが強くなったから行くべきではないなど短期的な問題ではないのではないか。仮にイデオロギーのおしつけがあったとしても、日本の青年たちはそんなやわなもんじゃない、もっとしっかりしている。もっと長く粘り強く中国とは付き合うべきではないだろうかと思いました。また中国と付き合うのは、普通の人どうしが行う民間交流が一番大事だということを感じました

■1968年自本国際貿易促進協会に就職

 大学卒業時に中国と関係ある仕事、しかも民間でやれる仕事を探したいと思いました。しかし全くないわけです。唯一あったのが日中友好貿易です。中国と貿易できる中小商社が100から200くらいあったでしょうか。そういう商社をお世話する団体として日本国際貿易促進協会(略称:国際貿促)があり、今年50周年になります。1968年に倉石講習会の先生の紹介で国際貿促に就職することになりました。この時期、中国は文革が3年目に入りいよいよ燃え盛っており、中ソ国境紛争が起こり、アメリカはベトナム戦争に走りと厳しい国際情勢にありました。日中貿易では、中国へ分割払いで最初のプラントを輸出できたのですが、2回目に台湾から抗議があり、吉田首相がこれからは認めないという吉田書簡を出されたため、中国との大きなプラントの輸出は1回で終わりました。共産圏には精度の高い機械や軍事転用の恐れのある物資は売ってはいけないというココム制度もあり、輸出入はわずか数億ドルでした。

 しかし、この中で中国が立派だったのは、毎年春秋の広州交易会をどんなに文革が激しくても1回も中断なく行ったことです。交易会は単に貿易商談だけでなく、銀行の決済問題や卓球交流大会等も行われる開かれた対外交流の場でした。

 私は70年春の交易会で初めて中国に行きました。この訪中は印象が深いものでした。初訪中だからというだけでなく、中国はこの年の4月25日だったと思うのですが自力で人工衛星を打ち上げ、昼の12時に衛星から「東方紅」という音楽を発信し地上局のラジオで放送しました。また、交易会会期中の5月1日に北京で周恩来首相から対日貿易に対して「周四条件」が発表されました。それは、

1. 韓国と大量に取引している日本企業とは取引しない、

2.台湾と大量に取引している日本企業とは取引しない、

3.アメリカのベトナム戦争に加担している日本企業とは取引しない、

4.日本とアメリカの合弁企業とは取引しない、というものです。

 中国側は政治と経済は不可分であると主張したわけです。当時の日中貿易は年間取引額の8割が交易会で、残りの2割は交易会参加の日本人の内、数十名「北上組」といわれた人達が、交易会終了後半年間北京のホテルに滞在して引き続き商談したものです。当時は、使い捨ての一次パスポートで大変厳しい中で中国と貿易をやっていましたが、少し変化が出たのは71年に中国が国連に復帰し世界でのステイタスが上がったことです。しかし、まさかその後すぐに国交回復に結びつくとは現場では誰も予想していませんでした。当時中国の日本に対する見方は国どうしの付き合いの他に、階級的観点があり、日本の広範囲な人民と統治階級とは違う、国交はなくても民間貿易は行うと主張しました。

■1972年日中国交正常化《貿易拡大の10年》

 1972年2月ニクソン大統領が訪中しアメリカの対中政策が変わり、9月に田中首相が訪中し日中の国交が回復したわけですが、日本の外交政策で重要な変化がある時は必ずアメリカの政策が先行し、それは今も変わっていないと思います。国交回復で今でも続いている問題は、国家賠償放棄と「深く反省する」ということが共同声明に書かれているが、民間賠償は未解決であり、また明確な謝罪文言がないため、今尚歴史認識の問題は繰り返されています。

 とはいえ国交回復は大変すばらしいことで今まで橋のない所をボートで渡っていたのに橋が架かったわけで経済交流が急速に発展しました。日中貿易は1972年に11億ドルで年々倍増し、昨年は1300億ドル、今年は1600億ドルになる見込みです。これはやはり政経不可分ということを経済交流が実証していると思います。国交回復後の10年は貿易拡大の10年で、日中間では訪中技術交流、工業技術視察訪日団の受入れや中国での産業別専業展覧会が盛んに行われました。

■1976年時代が大転換した年

 1976年は私個人にとっても中国にとっても日中関係にとっても時代が大転換した年でした。1月周恩来首相死去、7月唐山大地震で30万人が死亡し、9月9日に毛沢東主席死去、10月に4人組が打倒され10年の文革が終わり、華国鋒主席が誕生しました。中国はこの時環境保護に取り組み始めました。当時もっと本格的に取り組んでいれば今のような問題にはならなかったのでしょうが、それより生産力向上に力を入れました。国際貿促では環境保護技術設備を中国に紹介するため環境保護展を開催したのですが、展示品を積んだ船が横浜から天津に向け出港したその日に唐山大地震が起き、天津港が使えない事態が発生しました。荷主である我々が停船を指示したら全ての費用を負担することになる、しかし天津港に着けるわけには行かない。北京も大騒ぎで皆出勤しない、連絡もつかない状態でした。国際貿促では会議で当時の事務局長の宮石さんが、「唐山では大損害を受けているのに停船の費用惜しさに船を走らせるべきではない、国際信義のほうが大事だ。」と主張され停船を決めました。結果的に停船の連絡をする直前に青島に船を着けられることになったのですが、その時の「金銭より信義」という考えは大きな教訓になりました。私は77年初めて中国に駐在したのですが、中国がこれからどうなるのか誰も分からない時代でした。

■1978年大転換が本物になった年、《ODAの10年》

 1978年12月中国共産党第11期3中全会で正式に「対外的に開放、対内的に改革を行う」という方針が決まりました。日中間では平和友好条約が締結され、宝山製鉄所の建設が合意されました。この年靖国神社へA級戦犯の合祀がなされたそうです。79年アメリカは日本と違い何度も粘り強い交渉を進め、ニクソン訪中から8年目に正式に米中国交が樹立しました。またこの年中国で合弁法が公布され、日中間では第一次円借款が決まりこの20数年間で2.6兆円の円借款が供与されています。80年には中国は広東省に4つの経済特区を決めました。ところが日本の経済界は中国は計画経済体制であり、合弁法が合弁会社の寿命を20年としていること等から対中投資に躊躇し、本格的に投資するのにはその後10年かかりました。中国での展覧会も1983年の第1回のMCONEX(計測器展)を契機に多国が参加する産業別国際展に衣替えし、その後盛んになりました。80年代はODAの10年と言えます。また中国のマスコミから「階級」という言葉がなくなったのも80年代です。

■1990年代《投資拡大の10年》

 1989年6月4日天安門事件が起き江沢民総書記が誕生、90年ドイツ統一、91年にはソ連が崩壊し東西冷戦が終結、東欧は中国から10年ほど遅れてこの年から市場経済化が始まりました。92年は鄧小平氏が深圳・上海を視察し南巡講話を発表、同年天皇訪中、韓中国交正常化とやはり大きな転換の年でした。90年代には日本企業の対中投資が急速に拡大しました。投資拡大の10年と特長付けることができます。

 私は90年代初め国際貿促で新聞や書籍の編集に携わっていた時、中国経済日報東京支局の姜波さんご夫妻と親しくしておりました。国交回復後中国の変わった点は訪日団が個人の家に行くようになったことです。私は姜波さんご夫妻を正月に自宅に招いたのですが、食事が終わったら奥さんが台所で洗い物をしようとしてくれたのです。またご夫妻に何度も誘われお宅へ訪問した時には、奥さんが料理の食材をわざわざ中華街まで買いにいってもてなしてくれました。このことがありこれまであまり中国人が好きではなかった家内の見方が変わりました。

 96~98年に2度目の北京駐在時、97年2月に鄧小平氏が死去しました。この時、中国人女性から面白い話しを聞きました。鄧小平が亡くなった翌日職場で追悼集会があり、彼女は泣く気分にはなれないが皆が泣いた時のために目薬を持って行って周りが泣いたら使おうと思っていたそうです。ところが誰も泣かなかったそうです。76年毛沢東死去時には全国の人が葬送の気分になったが、鄧小平の時は普通の社会生活でした。これは社会の変化、両指導者の死の意味が180度違うものを実感しました。2年半の駐在時に2つの印象深い体験をしました。一つは北京郊外でかつて日本軍の駐屯地のあった門頭溝という所の農家に一晩泊めてもらった時、そこのお爺さんに「生きた日本人に50年ぶりに会った。」と言われ、また2000年に雲南とミャンマーとの国境の町、畹町に視察に行った時、村長からここは1942~45年の3年間日本軍が駐屯していたと聞かされた事です。かつての戦争は人民の記憶にしっかりとまだ根付いているなと感じました。これは歴史問題に関して経済活動をしていく上で実際に経験したことです。もう一つは96年北京の日壇公園で中国拳法を習っていたころ、当時の橋本首相が自分の誕生日に靖国神社を参拝しました。拳法の練習中、若い中国人男性が近づいて来て「あなたは日本人か、橋本首相の靖国参拝をどう思うか。」と聞いてきました。私自身は総理の靖国参拝はけしからんと思っているのでそう答えようと思っていたら、拳法の先生が割って入り「おまえは何物だ。この人は私の友人で拳法の練習をしている。そんな問題を話す場じゃないじゃないか。」と一喝してくれました。先生はごく普通の庶民ですがそういう場でどういう発言をしてどう対処するか分かっていて感銘を受けました。私が逆の立場だったらそのような態度がとれるかどうか。最近のサッカー騒ぎとは結びつかないかもしれませんが、我々の中国人との付き合いのスタンスによって中国人の対応も変わってくると感じました。

■21世紀《共通の経済圏形成に向かう10年》

 2001年12月10日に中国はWTOに加盟し、日中間では農産物貿易摩擦、残留農薬問題が起こりました。中国の今後の目標は2020年に全面的な小康社会実現をめざし、一人当たりのGDPを4000ドルにする、もう一つは中華民族の偉大な復興です。日本企業の対中投資累計は3万件に、投資金額累計は450億ドルに上り日中関係は今「政冷、経熱」の状態です。これは小泉総理が2001年総理になられてから毎年靖国に参拝している関係で、この3年間一度も日中首脳交流が行われていないためで、これが経済一体化の足枷になっています。共通の経済圏形成に一歩近づくためにFTA(自由貿易協定)が話題になっていますが、これには首脳どうしの話し合いが必要になります。日中経済協会代表団が温家宝総理と会談した時、温総理から「一部の政治家の歴史認識が問題なため日中間はうまくいっていません。」と言われ、それに対して日本の経済産業省の大臣は「次元の低いことをおっしゃる。もっと経済を重視すべきではないか。」といった発言をしました。次元の高い経済関係を築くためにこそ首脳どうしの理解が必要であり、そういう発言をする方が経済産業省のトップであるのは困った事だと思います。

 国民レベルで日中交流が必要であると同時に、日本政府は経済と政治は別々ではないと理解していただき歴史問題に対してもしっかりとした答えを出してもらいたいと思います。政治の世界もグローバル化が進んでいて日中関係といえどもイラクやテロ問題と結び付くし、全て二国間では片付けられない時代になってきました。そのためにも歴史問題では外国から言われるからというのではなく、日本人自身の問題として何よりも優先してその問題を論議して、過去の戦争をどう位置付けるか方向性を出さないと中国だけでなく諸外国からも相手にされない状態になるのではないでしょうか。

 

    以上

 

 

 

 

 

 

 【学習コンテンツ】へもどる |  ホームページへもどる