原載:『日中経協ジャーナル』(財団法人日中経済協会)
2003 年です。新しい一年が始まった。日本人のせっかちな感覚からいうと春にはまだ暫くあるが、中国から伝来した言葉を借りていうならば、まさに“一日之计在于晨”、“一年之计在于春”の時期であります。
さて、ここで早速脱線して日中文化差を観察することにしよう。上記の格言だが、最初の句は「一日の計は朝にあり」と訳し、日中それぞれ大差はない。(厳密にいえば朝を何時から何時までと心得るかの違いはある)二つ目の方は日本語で「一年の計は元旦にあり」というのが普通で「一年の計は春にあり」とはいわない。時間感覚の「厳密」さを重視する日本人は元旦の一日で計画立案しようとするが、中国では一季節、一年の1/4、即ち三ヶ月もかけて悠揚迫らずじっくり計画を立案することができるわけで、日本人と中国人との気質の差が、こんな言葉一つにも表われている。ディジタル思考の日本人とアナログ的感覚の中国人との格差が、輸入した中国格言の訳文の手直しにまで表われているようだ。
本題に戻る。身の上話になるが、神戸の外語を卒業して学校で学んだ中国語を生かして仕事をしようとして苦労した。当時は戦後がまだ完全には終わっていない時期であったので、多くの中国語科の友人は“所学非所用”で学窓を巣立ったが、融通の効かない私は、結局神戸の華僑学校(小・中学校併設)で教員になることで我侭を通した。そして、ここから私の「実践中国語」が始まった。
実を言うと、当初は中国語を使うといっても、日本語を教えるのに中国語で補足説明ができることを期待して採用された筈なのだが、4月になって出勤すると、春休み中に中国へ帰国してしまわれた先生の代講ということでいきなり四年甲組の“级任老师=班主任”「担任」ではどうかとの打診をうけた。
引き受けるにしても、もう少し慎重にしておけばよかったのだが、もともと、日本で学んだ「学校中国語」を実務中国語に“刷新”「ブラッシュアップ」することを期待しての華僑学校への就職でもあったのだから、若さの無鉄砲さもあり“顺水推舟shùn_shuǐ_tuī_zhōu”「渡りに船」と引き受けた。
ここは私にとって当時(1951年)としては、日本における最高の中国語学習環境であった。自宅が大阪の南部堺市にあり、神戸市の西部にある学校までの通勤は当時の交通事情から不可能であったので、他の多くの中国人の先生がそうであったように私も学校内に住むことにした。三度の食事は学校に住むこれら先生方のため、校務員“工友”さんが作ってくれる“伙食团huǒshi_tuán”「賄いグループ」があったので、これに仲間入りした。こうして朝起きてから夜寝るまでの間、日本語を使うことは学校外の人と接触する時以外はなくなった。中国で生まれた一般中国人なら、子供の時から過ごすような環境が成人して二十歳を過ぎた私を取り巻いたのである。食事・授業を含む各種学校行事・放課後の同僚たちとの談話、これら殆ど全てが中国語である。学校で学ぶことのなかったごく普通の日常会話(しかし、私にとっては耳新しい用語・用法がいっぱいだった)が頭の上を飛び交った。時には突然“藤本老师,你想怎么样?”「君、どう思う。」と質問が飛んでくる。“靠边儿站”「員数外の部外者として横で立たされる」はもとより“罚站”「お仕置きに立たされる」などまっぴらだと、必死になって言葉を追いかけた。こうして、目を白黒させながらだが、昭和26
年から36 年までの10 年間の教員生活で、中国語の普通日常会話や文書に慣れ親しむことができた。日本で外国語としての中国語を学んだ人があまり訓練されることもなく、気のつかない、日常生活やビジネスで有用な言葉に、ここで親しむことができ、用語用法をもここで仕入れ、また蓄積することができたと思う。
この自身の経験から、知っておいて実践上必要だし、また役に立つだろうと思う学校中国語語彙を以下にならべて見る。日本語でならこれらはごく自然に頭に入っている言葉だが中国語となると日本で育ち勉強してきた日本人には耳新しいだろう。
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