原載:『日中経協ジャーナル』(財団法人日中経済協会)
昨年四月以来連載してきた、「私の実践中国語」もこの三月で年度末が到来し一応の区切りとなった。年度代わりの今回は有終(=有醜)の美を飾りたく思い、日本と中国の「成語・ことわざ」を選んでみた。
この「成語・ことわざ」の文例部分(鏡部分と分けて、私はこの部分をデータ部分と呼んでいる)を参考文献にあたりながら収集している過程で、今回も日中間の文化交流の悠久さとその間口の広さをいやと言うほど感じさせられた。今はやりの中国語単語の表現形態を使うなら、さしずめそれは“深度之深”“广度之广”“涉及的方方面面”などという言葉を頻発することになるだろうか。
それだけにこの一年間の寄稿文を読み返してみて感じることは、それが自ら意識してその方向を選んだことではあるけれども、日中共通の成語やことわざの多さもさることながら、その中の一部にみられる「創造者」と「活用者」の間の微妙な意志疎通の食い違いや、時代を経てそれぞれがその風土にはぐくまれて言葉の「相」が変化してきている部分の意外に多かったことである。
既にどこかで書いてご披露したと思うが、たとえば日本語で言う「緒につく」という言葉は、「スタート・ラインに並ぶ」、「始まったばかり」という意味であるが、中国語の“就绪”は「軌道に乗る、用意ができる」の意味であり“准备就绪”といえば「準備完了、用意は整った」ということになる。取引の場で日本側がまだ何の心積もりもしていないのに、その場の雰囲気からつい「本プロジェクトに対する当社の準備は緒についたところであります。」と口走り、これを通訳が“对这一项目我公司已经准备就绪。”と言ったとしたら中国側の受け止め方はどうだろうか。
意味の違いは“就绪”ほど大きくはないが“求大同,存小异”も同様で「大同にはつくが、決して小異を捨ててはいない」のが中国である。お互いにそれぞれの持っているものを尊重しながら現在の双方にとって最善の道を選択し、平和に共存していこうとする歴史の経験に裏打ちされた中国風人生哲学をこのような言葉や格言の中からも読みとることができると思う。
用語一つ一つのこれらのミクロ・レベルの差異が“积少成多”(塵もつもれば……)で結果的に「近い中国」を「遠い中国」にしている原因の一つだとすれば、私たち中国語の学習や普及を心がけるものの負うべき責任は重大である。三十数年前の六十年代の初頭、香港経由で生まれて初めて中国を訪問した時、中国は日本から遠く離れた国だと心底感じた。しかし一方中国人との接触を深める中で精神的には気持ちが通い合えるなとの親近感を持ったものだった。その後十年余、国交が回復した。航空路が開けた。通信手段も多様化した。物理的に近くなった日中両国であるのに、精神的・文化的には遠心力が求心力より強まっているように感じるのは私の加齢のせいだろうか。
ぼやいていても始まらない。日本は素晴らしい生産加工技術の持ち主である。この技術の神髄は素材・部品の精度とデザイン力・組立技術とによって成り立っている。理工系のこの優れた能力をわれわれ文系の学習者はどうして活用しなかったのだろうか。部品や素材は言語に当てはめれば「単語」であり、デザイン・組立技術はというと、これは「表現方法」・「文法」となる。「表現方法」・「文法」が悪ければ聞く耳持たぬで聞いてももらえないし、意味も通じない。日本の研究者のこの面での研究はほぼ満足できるものだと思うが、「単語」=部品精度については歴史的経緯からか、同一表記文字の関係からか、研究も進んでいないように思う。今後は従来「同文」なる誤解の下になおざりにされてきた中国語素材面の精度をミクロ・レベルにまで追究し高めることに注力すべきではないか。そのためには文書データの蓄積と、その文書データ中に使用されている部品としての単語の意味・位置づけ・相などを統計的に解析するという気の遠くなるような膨大な作業が必要になる。同好の士とともに少しずつでもこのような作業に取りかかろうと考えている。ことわざの“千里之行始于足下”という言葉を脳裏に置きながら。
なお、今回の「ことわざデータ」は中国で入手した《汉日成语谚语对译》その他を参考にした。
|