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中学生の頃、国語の教科書(もちろん日本語だが)で「古典のすすめ」なる一課を読んだ記憶がある。内容はほとんど忘れてしまったが、中に大意下記のような記述があった。「古典は新鮮にして新しい。なぜなら古典がその生命を保ち、現代でも愛読されているのは、その内容の新鮮さが現代人の胸を打つものがあり、その著述精神の新しさが現代にも活き活きと脈打っているからである。古典の新鮮味をこころゆくまで満喫しようではないか。それに比べて今日の新聞は明日には旧聞になってしまう……。」
今考えてみると、文学作品と新聞記事とを対比することに疑念を感じるべきなのだが、この文章のここで言う「新聞」は中国語の“新闻”(ニュース→新しいもの)と同義に解釈して使ったのだろうか。いずれにせよ当時教室で国語の先生がどう解説してくれたかはとっくの昔に、“放在脑勺后”(失念)であるが、この「古典は新しい」というくだりだけは、「ははーん、そんなものかな。うまいこというな」程度の受け止め方で記憶の片隅に残っている。
中学を卒業して中国語を専攻し、その後日中両言語を古典とは程遠いビジネスの場で活用して半世紀を経た現在、あらためてこのことを思いだし中国語の中には、中国の「新聞」“报纸”の中にすらもこの古典的表現が活き活きと活躍していることを考えさせられている。
今、この原稿を書いている私の書斎は、ちょっとしたもので一台のパソコンはインターネット専用でデジタル回線でつながっており、目の前の21インチ大型ディスプレイ画面には今日の人民日報のホームページが映し出されている。帰宅して夕食を済ませた後、中国のニュースを中央電視台(TV局)の“新闻联播节目”(全国版ニュース番組)と、その後このネットで「人民日報」を読むこと、さらに毎日午後一時からNHK第二放送が行った中国語国際ニュースの録音を再生して聞くことが私の夜の日課でもある。
このことから、私が毎晩見たり聞いたりしているものは、日中両国双方のリアルタイムで水もしたたる新鮮な「新聞=ニュース」であることを否定される方はいないと思う。先日江沢民総書記の訪日延期が報道された時も、数時間の差ではあるが、この報道の原文が“推迟访问日本。”であることを確認し、余計な憶測を排除した実績がある。
中国では、この「新聞紙面」や「TV報道」に古典が「四文字熟語」や「成語」、「比喩」、「格言」などの形で盛んに出現する。中国語の勉強をするときに、普通の単語を覚えるのとほとんど同様の比重で覚える必要があり、これらは若者どうしの簡単な会話の中にも盛んに出てきて、会話に深みを増したり、表現に彩りを添えたりする。本来平凡なはずの言葉が、一言この格言や比喩を付け加えることにより、活き活きと飛び跳ねる。すばらしい言葉の香辛料であるといえる。
ただ、この香辛料使い方を誤ると、料理と同様にまったく食えなくなる。また、その由縁・来歴によってせっかくの言葉の表現内容に、ある一定の極限性を与えてしまうこともある。さらに、“约定俗成”によって、現在中国における使われ方と、日本で解釈されている使われ方に微妙な差のあることもある。日本がその特徴とする「応用」や「改善利用」により、また日本人特有の文化により、本来持つ意味の一部が失われて使っている場合もある。よく言われる「小異を捨てて大同につく」と“存小异,求大同”(小異を残して大同につく)の違いなどは、日中両国国民の文化差異とでも言えるのではなかろうか。小国・島国の単一民族国家日本では「文句いわずについてこい」式のルールが通りやすい。反対に、他民族で広大な国土を有し、多くの異なる価値観や生活様式を持つ国民を抱えた中国では全部が一致する基準を定めることは至難の技であり、ここに現実に根ざした基準や哲学理論が生まれたといえる。
成語や四文字熟語が中国のビジネス文書の中で現在もその鮮度を保って活用されていることを見るにつけても、中学生の頃に教えられた「古典は新鮮だ。」という言葉を思い出す。「我田引水」(この言葉は日本製、現代中国語では“自卖自夸”という)でこじつけになるかも知れないが、新聞やビジネス文書によく使われる、古くて新しい息吹をもつ“成语”などを私のノートから別表にまとめてみた。
四文字熟語
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