南宗寺は三好長慶が、父の菩提を弔うために1557年に建立した寺である。三好長慶と言えば、当時畿内を押さえ、幕府の実権を握るなど、一部に信長の前の天下人と呼ぶ声さえあった実力者。ここには三好一族の供養塔が並んでいるが、同時に利休を中心に表千家、裏千家、武者小路千家の千家一門の供養塔もいつの頃からか置かれている。そして千利休と三好長慶の墓自体は、大徳寺内に並んで建っているというから、茶の湯と権勢の結びつき、その関係の深さは相当なものだ。
この寺内には、津田宗及の墓もある。その塔には聖母マリアと思しき女性が描かれ、墓石には十字も記されている。宗及は生前表明していなかったが、死後キリシタンとして葬られた様だ。では利休はどうだったのか? 利休の高弟、蒲生氏郷、高山右近などはキリシタン大名として知られ、前回述べた細川三斎もキリスト教とは近い関係にある。
利休の妻や娘がキリシタンだとの説もあるが、とはいえこの寺に来てみるとなぜか利休はキリシタンではないだろうと感じてしまう。南宗寺には古田織部により作られた、禅寺らしい見事な枯山水庭園を見ることができる。やはり茶の湯は禅宗の影響を強く受けているようだ。
実は南宗寺にはもう一つ重要なものがある。それは徳川家康の墓なのである。家康は1616年駿府で亡くなったというのが定説であるが、何と大阪夏の陣で真田信繁(幸村)軍に追い立てられ、後藤又兵衛の槍に刺されて、この寺まで落ち延びて来て果てたという言い伝えがある。駿府で病死(食中毒?)したのは影武者だとか? これは豊臣家滅亡を惜しむ人々の願望だろうか。
この真偽は全く不明ながら、後に秀忠、家光親子が将軍交代で上洛の際、揃ってこの寺を訪ねたこと、ここに東照宮が建てられたこと、堺奉行は就任するとまず拝廟のために南宗寺を訪れたことなどから、このような説が出て来たらしい。東照宮は第二次大戦末期に空襲で焼失したが、今も唐門が残され、家康の墓と首塚と呼ばれるものがあるのは何とも不思議だ。
家康は信長、秀吉と比べて茶の湯への思い入れが少なく、むしろ新しい徳川の世を作るため、茶道から離れ、これまで封印されてきた煎茶へ目を向けていたとの説もある。もしそうであれば、千家一門と家康が南宗寺に同居しているのは、何とも皮肉な取り合わせだ。
南宗寺も大坂夏の陣で焼けてしまったが、その再建に尽力し、今の場所に再興したのは沢庵和尚であり、住職も務めている。ただ沢庵和尚最後の地は堺ではなく、江戸だった。東京品川に東海寺という大徳寺派の寺がある。ここは1638年、沢庵和尚に絶大な信頼を寄せていた、時の三代将軍徳川家光が、沢庵を開祖として建てた寺である。何故家光が一時は流罪となった沢庵を重用したのか。その要因の一つに南宗寺は絡んでいないのか、ちょっと引っかからないでもない。
現在東海寺と大山墓地の位置はかなり離れている。この墓地の中心にあるのが沢庵の墓となっている。如何にも沢庵らしく、まるで大きな漬物石のような墓石が目を惹くが、これはあの小堀遠州が築造したとの話もあるらしい。
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