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アジアを茶旅して 

 

第7回 佐々木小次郎はなぜ巌流島で武蔵と決闘したのか
     

山口県鹿野 茶を炒る釜が残る
山口県鹿野 茶を炒る釜が残る

 

コロナの影響で、海外を旅することが出来なくなってもう何か月経つだろうか。茶旅ができないとクヨクヨしていたところ、「国内茶旅は如何?」と言われ、万全の注意を払いながら、他の連載の取材を兼ねて出掛けてみた。勿論日本にも茶産地は沢山あり、海外だけが茶旅ではないので、この機会に日本茶の歴史の勉強も始めている。

今回訪ねたのは山口県。山中の村々には、昔から自分たちが飲むお茶を自分たちで作る、釜炒り茶があるというので見に行った。以前も書いたが、日本茶と言えば蒸し製緑茶というのは、どこの田舎でもそうだったわけではなく、番茶のような下の固い葉を使って作るのでもない、新芽を摘んで釜で炒った茶を発見する良い機会となった。「自分で飲むんだから美味しい方がよい」というのは当たり前であろう。

この旅の余興として、案内者から「折角なのでお墓参りに行きましょう」と言われた。1つは「静御前の墓」。途中から田舎道に案内板が立ち並び、道の駅には静の像まで建てられていた。墓自体はとても古い、苔むしたもので、静とその母磯禅尼、そして義経との子の3つがひっそりと建っていたが、本物だろうか。

 

     
     
     

山口 佐々木小次郎の墓
山口 佐々木小次郎の墓

 

小次郎の墓 横の説明書き
小次郎の墓 横の説明書き

 

小倉城 小次郎と武蔵の像
小倉城 小次郎と武蔵の像

 

もう1人、佐々木小次郎の墓にも行ってみた。勿論あの宮本武蔵と巌流島で決闘した男である。武蔵に関しては吉川英治の小説や映画などで何となく知っているが、「小次郎って、いつ死んだのか?」などと馬鹿な疑問が湧くほど、小次郎に関する知識はない。こちらの墓の説明書きには「小次郎は巌流島で武蔵に討たれた」とあり、その墓がここにあるという。

だが、その説明で一番興味深かったのは「小次郎の妻ユキは当時懐妊中であったが、切支丹の信者で……」という部分で、そうか小次郎には妻がいて、しかも妊婦でキリシタンだったというのは初めて知った気がする。取り敢えず小次郎について、ウィキペディアで検索すると何と「1612年宮本武蔵と九州小倉の『舟島』で決闘に敗れて死んだ。当時の年齢は武蔵29歳、小次郎は出生年が不明のため定かではないが、武蔵よりも40歳程年上だったといわれている」と書かれている。

もしこの記述が正しければ、壮年の武蔵が老人の小次郎を殺した?という話で、まるでイメージが違う。しかしもし妻が妊娠中であれば、69歳にしてまだ壮健だったのか。北九州、小倉城跡にある武蔵と小次郎の像からは想像もできない話の展開であり、調べざるを得なくなる。

小次郎の年齢について、小説宮本武蔵の作者吉川英治はその随筆の中で「まさか十八歳ではあるまいが、決して六十、七十の老熟円満な人物の試合ぶりとも見えない……既に巌流という一派を独創して、諸国に名も聞え、細川が招いて抱えた程の人物であれば、三十歳以降ではあるまい」と言っている。

この墓に行ってから俄かに『岩柳佐々木小次郎』(森本繁著)が真実に近いような気がしている。そこには「24歳」と書かれており、また出身地は山口県となっており、今回の墓にも通じるものがある。静御前と違って、小次郎の墓が各地にあるわけではない。またこの本で「小次郎が武蔵と決闘したのは、小倉からキリシタンを排除する必要があった細川家によって仕組まれたもの」と読むとその内容に驚きを禁じ得ない。

小次郎は細川家に召し抱えられ、その道場にはキリシタンが多かったという。細川忠興(三斎)と言えば関ケ原の戦いの渦中、キリシタンだった妻ガラシャを亡くしており、小倉でもキリシタンを保護し、立派な教会があり宣教師が教えを広めていた。ところが徳川家康がキリシタン禁制に傾き、その中で巌流島の決闘があったというのだ。因みに巌流とは小次郎のことであり、敗者の名がその島に付けられた意味、そして晩年の武蔵が肥後に移った細川家の厄介になっているのは、実に興味深い。

 

       
     

小倉城 細川忠興
小倉城 細川忠興

 

ところで細川忠興は隣の福岡藩黒田長政とライバル関係にあった。黒田家も父官兵衛(如水)がやはり熱心なキリシタンであったが、お家安泰のために棄教し、博多でキリシタン弾圧が行われたことも、忠興に領内でのキリシタン排除を決意させ、その一環で小次郎の始末を考えた結果、巌流島が起こったのだろうか。

茶に関していえば、細川三斎、黒田如水は共に世に名の知れた茶人でもある。キリシタン大名に茶人が多いというのも面白い。三斎の師である千利休もキリシタンと繋がりがあったとも言われている。そういえば最近読んだ『利休~切腹と晩年の真実』(中村修也著)では、利休は切腹しておらず、逐電して生きていたという説が述べられており、これが本当なら歴史がひっくり返る衝撃だが、真相はどうだろうか。

更にこの逐電劇には細川三斎の暗躍が見られるとも言い、また逐電した先は九州、保護したのは黒田家だったのではと言われると、戦国末期の政治情勢、人間関係と茶が複雑に絡み合っており、茶が単なる風流の産物ではなかったことを如実に物語っている。

 

 

     
    今回のおすすめ本
       


『中世日本の茶と文化 生産・流通・消費をとおして』
(アジア遊学252)

 

 

     
     
 

 

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

     

 

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