もう1人、佐々木小次郎の墓にも行ってみた。勿論あの宮本武蔵と巌流島で決闘した男である。武蔵に関しては吉川英治の小説や映画などで何となく知っているが、「小次郎って、いつ死んだのか?」などと馬鹿な疑問が湧くほど、小次郎に関する知識はない。こちらの墓の説明書きには「小次郎は巌流島で武蔵に討たれた」とあり、その墓がここにあるという。
だが、その説明で一番興味深かったのは「小次郎の妻ユキは当時懐妊中であったが、切支丹の信者で……」という部分で、そうか小次郎には妻がいて、しかも妊婦でキリシタンだったというのは初めて知った気がする。取り敢えず小次郎について、ウィキペディアで検索すると何と「1612年宮本武蔵と九州小倉の『舟島』で決闘に敗れて死んだ。当時の年齢は武蔵29歳、小次郎は出生年が不明のため定かではないが、武蔵よりも40歳程年上だったといわれている」と書かれている。
もしこの記述が正しければ、壮年の武蔵が老人の小次郎を殺した?という話で、まるでイメージが違う。しかしもし妻が妊娠中であれば、69歳にしてまだ壮健だったのか。北九州、小倉城跡にある武蔵と小次郎の像からは想像もできない話の展開であり、調べざるを得なくなる。
小次郎の年齢について、小説宮本武蔵の作者吉川英治はその随筆の中で「まさか十八歳ではあるまいが、決して六十、七十の老熟円満な人物の試合ぶりとも見えない……既に巌流という一派を独創して、諸国に名も聞え、細川が招いて抱えた程の人物であれば、三十歳以降ではあるまい」と言っている。
この墓に行ってから俄かに『岩柳佐々木小次郎』(森本繁著)が真実に近いような気がしている。そこには「24歳」と書かれており、また出身地は山口県となっており、今回の墓にも通じるものがある。静御前と違って、小次郎の墓が各地にあるわけではない。またこの本で「小次郎が武蔵と決闘したのは、小倉からキリシタンを排除する必要があった細川家によって仕組まれたもの」と読むとその内容に驚きを禁じ得ない。
小次郎は細川家に召し抱えられ、その道場にはキリシタンが多かったという。細川忠興(三斎)と言えば関ケ原の戦いの渦中、キリシタンだった妻ガラシャを亡くしており、小倉でもキリシタンを保護し、立派な教会があり宣教師が教えを広めていた。ところが徳川家康がキリシタン禁制に傾き、その中で巌流島の決闘があったというのだ。因みに巌流とは小次郎のことであり、敗者の名がその島に付けられた意味、そして晩年の武蔵が肥後に移った細川家の厄介になっているのは、実に興味深い。
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