もう一つ良く分からないのは、現代中国での紅茶の分類が「小種、工夫、砕茶」の3つに分けられていることだ。小種は正山小種、砕茶は砕かれた紅茶とすれば、工夫紅茶とは何か。一応工夫紅茶の発祥は、福建省福安の坦洋工夫茶で、その発明は1851年だったと地元に行って確認した。福安とは、その昔は福建茶業の中心地であり、1935年に福建初の茶業試験場がレジェンド、張天福によって作られた場所である。ただ坦洋工夫は如何にして作られたのかという核心部分については、どうもはっきりしない。
ふと、昨年復刻されて読み返した松下智先生の『アッサム紅茶文化史』の一節に「インドの茶産業初期の段階で完全発酵の紅茶製法への転換があり、これが19世紀中ごろに逆に輸出用紅茶製法として中国へ導入され、従来の半発酵の紅茶に加わったということができる」とあるのを思い出した。アッサム種を使って紅茶が作られ、カルカッタに送られたのは1839年以降、イギリスでアッサム茶が好評を博すのは1860年代とあるから、何となく年代的には近いものがある。
この考察がもし正しければ、イギリスは植民地インドのアッサムで自国に合った紅茶を開発し、このサンプルを福建に持ち込み、従来中国が製造していたブラックティーとは異なる茶を発注し、中国側が委託生産に応じた(更に工夫を加えた?)ということになりはしないか。この辺りの歴史を空想で語り始めると、今でもキナ臭い中印関係に影響があるかもしれないので止めにするが、イギリスではなぜアッサム紅茶を引き続きブラックティーと称していたか、その疑問は残っている。そして教科書的に言われている「紅茶は完全発酵茶」という概念も揺らぎ、やはり「烏龍茶と紅茶は製造法の違い」という定義の方がしっくりくるように思える。
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