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すべての中国語教員のために
胡玉華著『中国語教育とコミュニケーション能力の育成――「わかる」中国語から「できる」中国語へ』の刊行に寄せて
 
    古川 裕    *『東方』336号(2009年2月号)より  
   

 わが国における中国語教育は長い歴史を有し、さまざまな成果をあげてきた。しかし、ここ数年来、国内外から多重の圧力を受けて、その流れは大きく変化しつつある。旧来の伝統的枠組みに依るだけでは解決しにくい幾多の問題が浮上しており、それに対応するための新たな中国語教育学の構築が求められていると言ってよいだろう。

 たとえば内圧のひとつとして、大学における英語以外のいわゆる第二外国語の教育体制が縮小化している現状を挙げることができる。一九九七年一月に実施された大学入試センター試験から外国語科目の中に中国語が加わり早くも十年以上の時間を経て、今や国内の各地で約六百校の高等学校で中国語が学べるようになっている。にもかかわらず、大学のカリキュラムからは外国語科目・中国語の授業が削られ、中級レベルひいては初級レベルの開講さえ危ういという悲鳴に似た憂いの声が聞こえてくる。中国との接触交流がいやおうなく広がり深まってゆく社会情勢にあって、本来ならば中国語の教育はよりいっそう重視されるべきはずであるが、学習者の数は徐々に減少しはじめ、それがまた教育の場を縮小させてゆく……という悪性循環に陥るのではないかと危惧される。
 外圧の一例としては、二〇〇五年七月に北京で開催された"世界汉语大会"以来、中国が国策的戦略として推し進めている中国語の全世界普及政策を挙げることができる。現時点で世界各地に約三百五十校、日本国内にも十校を超える孔子学院・孔子学堂が設立運営され、既存の中国語教育諸機関と競合共存するかたちで、それぞれ独自の中国語および中国文化の教育を始めている。わが国のように早くから中国文化に親しみ、中国語を教え学ぶ条件も十分に整っている地域において、新来の孔子学院はすでに長い歴史をもつ中国語教育界にどのように根をおろし、日本の中国語教育に対してどのような機能を果たしてゆこうとするのか。このようなソフト・パワーに対して、いたずらに排他的になることなく冷静にこれを見守り必要に応じて助言や協力をしてゆく必要があるだろう。また、世界各地で中国語を学んでいる大学生や高校生を対象とした国際的規模の中国語スピーチ・パフォーマンスコンテスト"《汉语桥》世界大学生、中学生中文比赛"が毎年開かれ、日本の中国語教育の成果が問われ始めている。振り返って、果たしてわたしたちは世界の舞台で通用するだけのレベルに達した学習者を育てあげてこれたであろうか。

 日本において中国語の教育と研究に携わるわたしたち教員は、このような内外の圧力やさまざまな要因によって惹き起こされつつある中国語教育を取り囲む環境の激変を看過することなく、適確にこれに対処し、今後わが国にとって更に重要となる中国語教育の新たな歴史を切り拓いていかなくてはならない。

 まさにそのような"关键时刻"を迎えた今、胡玉華さんの長年にわたる研究成果が『中国語教育とコミュニケーション能力の育成――「わかる」中国語から「できる」中国語へ』として一冊にまとめられ東方書店から上梓されることは、まことに時宜を得た快事として、その刊行を喜びたい。

 胡玉華さんは、来日留学後に修めた教育心理学に関する学問的蓄積を自らの母語である中国語の教育と研究に活かしている稀有な存在である。『中国語教育』第五号と第六号(中国語教育学会、二〇〇七年三月、二〇〇八年三月)において両号ともに巻頭を飾った連作論文「コミュニケーション能力の育成を目指した中国語教育――その理論及び実践例」と「コミュニケーション能力の育成を目指した授業づくり――中国語授業における『場面付き学習』の試み」は、本書へとつながる一貫した問題意識を体現した優れた研究であった。その問題意識とは、胡さん自身のことばを借りて言えば、以下のようなものである。

……だが、コミュニケーションがなりたつためには、外国語の発音・文法・語彙といった「言語知識」だけでなく、さらにコミュニケーションの場面で言語知識を生かす「応用能力」の獲得が必要となる。「何年も習ったのにちっとも役に立たない」という恨みがしばしば学校の外国語教育に向けられるのも、おそらくこの事と無関係ではない。(略)学校の外国語教育は決して「役に立たない」ことをやってきたのではない。コミュニケーションのためには、発音も語彙も文法もみな必要である。だが、これまでは、それを実際の必要と場面にあわせて「役に立てる」訓練が欠けていたのである。とくに中国語教育の場合、進展いちじるしい英語教育や日本語教育の分野に比べ、この問題への対応がとりわけ遅れているように思われる。(本書前書きより)

これは日本の中国語教育が長年抱え続けてきた問題点についての核心を突いた指摘であり、わたし自身を含め、すべての中国語教員が虚心坦懐に受けとめるべきことばではないだろうか。

 本書は、上に引いたような問題意識を研究の出発点にして、中国語学習者のコミュニケーション能力を育成するために必要な理論とその実践方法を以下のような構成によって詳述した好著である。
 まず第一章から第二章までの理論的な記述においては、著者胡玉華さんの専攻分野である教育学に関する該博な知識を存分に援用しながら「外国語教育の目的・内容・方法」を明確に整理したうえで、現在日本の教室で広く用いられている数種類の中国語教科書のシラバスが検討されている。また、旧来の文法訳読教授法、直接教授法、オーディオリンガル教授法の長短が分析され、これら伝統的な教授法に対して学習者の能動性を引き出すための建設的な提言がなされている。
 第三章では、世界各地の外国語教育に大きな影響を与えたヨーロッパのCEFR(『言語の学習・教育・評価のためのヨーロッパ共通フレームワーク』欧州協議会、二〇〇一年)やアメリカのN.S.(National Standards『二一世紀のための外国語学習の目標』アメリカ外国語教育協会、一九九六年など)の紹介に並んで、わが国の『高等学校の中国語学習のめやす(試行版)』(財団法人国際文化フォーラム、二〇〇七年)も革新的なガイドラインとして取り上げられている。これは二〇〇七年五月に中国語教育学会と高等学校中国語教育研究会が初めて合同で開催した記念すべき全国大会の国際シンポジウムにおいて参会者にお披露目されたものである。
 ちなみにここで贅言を費やせば、このような外国語教育をめぐる新たな動きは地域国情や教育環境を越えて相互連鎖的に刺激し合うもので、中国においても本書で紹介されている『高等学校外国留学生汉语教学大纲』(中国国家对外汉语教学领导小组办公室、二〇〇二年)などシリーズ数冊の後を追って、次のようなガイドラインが二〇〇七年の秋から陸続と公刊されていることは、この分野で注目に値する最新の動向である。幸いわたし自身も上記『高等学校の中国語学習のめやす』には大学教員としての立場から、そして下記の中国版スタンダード作成には日本人教員としての立場から、それぞれの編集作業に参加して意見を述べる機会を得たが、これらの作業に参加した経験は、中国語学プロパーの研究によって得られた理論的な知見を教育の場で適宜応用すればよかろう、というような単純で天真爛漫な発想に縛られていたこれまでのわが身を猛省するきっかけとなったことを告白せねばならない。これら内外のガイドラインを通じて、中国語教育におけるパラダイム転換の必要性を身をもって痛感させられたと言ってよいだろう。

『国际汉语教师标准』(国家汉语国际推广领导小组办公室、二〇〇七年一〇月、外语教学与研究出版社)
『国际汉语能力标准』(国家汉语国际推广领导小组办公室、二〇〇七年一一月、外语教学与研究出版社)
『国际汉语教学通用课程大纲』(国家汉语国际推广领导小组办公室、二〇〇八年三月、外语教学与研究出版社)

 これに続く第四章から第七章までの実践的な方法論については、主としてコミュニカティブ・アプローチに依拠しつつ、それを応用して教育現場で実践するための言語ゲームやロールプレイ、シナリオプレイ、シミュレーションなどの教室活動や教材づくり、「場面つき学習」による文法指導法などが具体的に紹介されており、さっそく明日の授業から使えそうなヒントが豊富に示されている。また、多くの日本人学習者にとって習得上一番の難点になりがちな音声面の教育を補強する方法として音声依拠型音読法とシャドーイングが紹介され、具体的なデータ分析によってその有効性が述べられていることもたいへん興味深い。ただ、わたしにはこの二つの教授法は対象とする学習者の習得レベルによって教育効果が分かれるように感じられる。発音習得が未熟な初級レベル、とりわけ入門レベルの学習者を教育対象とする場合には、彼らの学習意欲を高めつつ、その後も引き続き学習させるための、より有効性の高い教授法が求められよう。
 そして、本書を締めくくる第八章は、教える側の立場から学ぶ側のほうに視点を移して、学習者側の学習ストラテジーが述べられている。学習者にどのようにしてモティベーションを持たせかつそれを維持させるか、これは究極的には学習者の内的動機に帰せられる問題ではあるが、そこに教える側からの働きかけと連動する一面があることは否定できないであろう。

 本書は教授者としての立場のみならず学習者としての立場からも、「わかる」中国語から「できる」中国語への橋渡しを目指そうとする意欲的な研究の成果である。
 日本の中国語教育をより質の高いものへと引き上げ、時代や環境の変化に柔軟に応えてゆくためにも、本書に述べられた主張の多くはわれわれが傾聴するに値するものである。その意味で、日本のさまざまな中国語の教室で教壇に立つ数多くの先生方、そしていずれの日にか中国語の教壇に立つことを目指す人たち、すべての"同仁"にとって、本書がおおいに役立つであろうことをわたしは信じて疑わない。また、わたしのように日本語話者として生まれ「学んで習得した中国語」を教えている教員は言うまでもなく、本書の著者のように中国語話者として生まれ育ち「自ずと生得した中国語」を日本人学生に教授しておられる先生方にも、ぜひ本書の精神をこれからの授業設計と教室運営に活かしていただきたいと想う。

ふるかわ・ゆたか(大阪大学) 

 
   
   
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